無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

土曜日, 8月 26, 2017

大宰府と信濃国分寺は兄弟

本日の東信ジャーナルに吉村九州男師の見解が発表されています。

 信濃国分寺の尼寺の建築時が古く、僧寺とのサイズが異なるので、建立期が古く当初、尼寺ではなかったらしい。(これまでの記事より)
 古代朝鮮王朝の名残では?ということでしたが、本日の見解は、大宰府と同じ作りなそうな。

 太宰府は、国分寺ができる前の時代は、筑紫都督府がおかれていて、髄や唐の軍人が進駐していた軍の要塞。
 660年頃は、唐の軍事顧問が居たが、敵味方に分かれて白村江の戦いに参戦して、倭国百済連合軍が負けたので、唐の軍はすぐには戻っては来なかった。

 倭国にも違う一軍の軍事顧問が居て、(当初は唐と仲良しだったはずなので、唐から使わされたと思われる)その方はモンゴルの突厥の兵と一族が、阿蘇高原に駐留していて、馬の育成と騎馬兵の養成をしていたと思われます。

 やがて、唐の軍が進駐してくるのですが、その間隙を縫って阿蘇から科野の軍が移動したことまでは、これまで推測しました。

 信濃国分寺の尼寺の前身は、大和政権の科野都督府の重みのある建物であった可能性が高いですね。
 主は、筑紫都督府の唐国の関係者ではなく、唐出身の突厥の兵なので、建築技術者は唐ないしは朝鮮半島の流れをくむ大工だった可能性がありますね。

 そのようにして664年当初、帰化以前の唐や百済や倭国の人たちが、科野に移動してきたことでしょう。