無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

日曜日, 1月 31, 2016

お金のことは、お金では解決できない

マイナス金利とは驚きだ。

アベノミクスが機能してないのにかかわらず、景気高揚感を演出したい思惑なのであろうが、小手先の操作やムードで経済を操作することなど不可能ではないだろうか。

経済状態とは、ある意味お金のこと、『お金のことは、お金では解決できない』という諺があります。
貧乏人のことと思っていましたが、政のことでもあるようですね。

経済政策は、もっと時間を掛けて、お金以外のことで、刺激あるいは底入れしていかないと、本物にはならないでしょうね。

経済の原則、一物一価。

ヒトもモノも世界経済レベルで、最終的には一物一価に向かっていく。
殆どの物が石油と鉱石で造られている以上、原価については既に一物一価だ。

ヒトについてだけ、地域差がまだ在るけど、やがて統一に向かう。

安いには安いなりの訳があり、手抜きや安全の経費の脱落があり、日本では、安全の経費が省かれて、人の命と引き換えになっている。
中国では、それ以前の環境への安全の経費が省かれて、モノが生まれる代わりに、マスクやミネラル水が必要な社会が生み出されていたり、手抜きによって信用を失う事になる。

先進国が気づいたように、やがて後進国でも教訓は生かされて、一物一価に近づいていく。

モノの中身の品質まで統一すれば、既にモノもヒトも一物一価は為されているので、何処で作っても同じことになるので、訳もなく賃金を高くしたり、他国より快適な生活を望んだり実行している国や地域では、このままだとお金は持っていたが仕事が無い状態に陥ることになる。

一物一価の経済が為されたいま、仕事を確保するためには、「作る速度を飛躍的に上げる」「最も高品質のものを作る」「全く違った生き方ができるものを創りだす」ようなことを、国をあげてする以外にない。

しかし、我が国においては、ヒトの一価を貴族と奴隷に分けて、奴隷から収奪することで、経済を成立さる仕組みを創りだしていて、それは将にローマ時代のそれのようではないだろうか。

この時代の完成形を「封建時代」と呼び、多数の奴隷が一部の貴族に蹂躙される時代が、もうすぐそこまでやって来ようとしているのに、お気づきだろうか。

消費税増税は奴隷税であり、法人税減税は貴族へのサービス以外に、適当な言葉が見当たらない。

気づかなければいけない。

朝三暮四 サルに朝食に三個夕食に四個のりんごをあげていた。猿の代表が「もっと欲しい。」ことを飼い主に要求した。飼い主は、では、「朝に四個、夕に三個」にしよう。サルたちは皆喜んだ。

私達は、猿以下になっていはしないだろうか?サル以上になるにはどうすれば良いのか?

イヌであることを止めることころから始める以外にないような気がする。

「飼い主から餌をもらう」このことをやめて、縄文人のように自分で食料を探したり、あるいは弥生人のように作ったりして、飼い主なる貴族から独立した人格を作り出すこと。

出エジプトですね。

貴族になるにはどうしたら良いか?

奴隷同志が手を結び『(庶民に)新しい生き方を提供する』「あたらしい商品」を創って販売することだと思います。

ソニーが創業の精神に倣うことではないでしょうか。
『オウ、これで独り立ちできる。』そんな商品が待たれているような気がします。

歪はここにある

・ TPPという世界規模の貴族主義社会の経済の実現

・ 消費税増税と一部で据え置くことを減税というまやかしによる奴隷税制度の確立

・ 法人税減税という貴族サービス

・ 規制緩和という社会主義体制の歪の二重の歪による安全の軽視や自然破壊

・ 原子力発電という原始的構造の自然破壊のモンスターの野放し

これらを、若し国民が主人公で居たいなら、それぞれが学んで正常な状態を見つけ出して、己の手で実現するのだと決心して実行しないかぎり、ヒトの手に委ねている限り、私たちの幸せは来ないのではないだろうか。

もう、いい加減に目を覚まそうではないか。

土曜日, 1月 30, 2016

真実を歪めたのは誰だ!


小保方晴子さんの手記がでたので、早速読んでみた。

「ボタンの掛け違い」が産んだ悲劇だったような気がする。
発想が秀才と違っていた。
思いもよらない発想で、天才肌の凡人なのであろう。

可愛かったことが幸いして災いになったような気がする。
男の子が思いついたこと言っても「バカヤローそんなわけあるか」ってオシマイだったのが、
可愛かったのが幸いして(災いして)教授に認められて、研究することになった。

結構当たってたんで、成果が出て次々とラッキーが進展して、
そう深い検証を誰もやっらないうちに、大事になっていった。
彼女はわけも分からず、流されていたことが読み取れる。
ふと気づいたら、ひどいことになってしまった。

ただただ可哀想である。

副題で、真実を歪めた者が居ることを伝えているが、手記には見えてこない。
関わった研究者・理研のエライさん・職員・報道陣の全てが、何かに突き動かされて、真実を歪めることに手を貸してしまっている事が読み取れる。

マスコミは、許される者には手加減せず、視聴率の取れる餌は逃がさない。
権力の思いのままだ。
自律した報道などは、存在しないのだろう。
その人達も、流されているのではないだろうか。


真実は知る必要がある。
その前に、それを上手く説明したり、隠してしまう術を手にしていないと、悲惨なことになる。

ある者はキチガイ扱いされ、ある者は無視されて、ある者が生け贄にされる。
それを責める者は、己が見えない者の手先になって、魔女狩りの犬なっていることも知らずに、吠え立ててしまうのである。

そいつらは宇宙人なのか、かたちなき者だとすれば単に群集心理なのかもしれない。
ちょうど、小鳥やコウモリが、夕暮れに大きな形を描いて、舞っているのに似た、そんな図が書き込まれていた。


こんな世を「もっと朗らかな世にしなければ」と思う。

そのために、真実を追求せんとする者は、それが科学であれ、社会秩序であれ、
答を見つけて、世間に発表する前に、
社会から受け入れられる術を、身に着けてからにしなければならないらしい。

理不尽だが、そうした勉強も、道を求める者には必要な気がする。

それにしても、小保方さんには、立ち直りは難しいのだろうが、この苦難を乗り越えて欲しい。

判っていることがある。
これに懲りて、他人は宛てにしないこと。
自分ひとりで収束するような仕事を探すより他ない。
それが、秀才ではない奇才の定めなのだから。

自分を信じ、己の力の及ぶところでもう一度、生を確かめる。
そして、元気になって、再び
「ヒトの役に立つヒトになりたい。」の想いが実現されるよう願うばかりである。

木曜日, 1月 28, 2016

ふそうの矜持

事故の原因を、あたかもバス会社の勤務などにあげているが、下記のようなことらしい。
それによると、「運転が未熟なため、ニートラルになった。」ようだが、ミッションが壊れないように「車軸とエンジンの回転が合わないとギヤが外れてニートラルになる。」ようにプログラミングされている車は、マニュアル車ではなくシステム欠陥車で、VWの排気ガスのプログラム以上の大問題だ。
マニュアル車は、運転手がクラッチ操作とアクセルを駆使してギヤが入る状態になり得るので、テクニックで危険回避の術がある。
この車は、そうなっておらず、排気ブレーキがオフスイッチであったのだろう、フットブレーキだけでは減速できないので、ギヤを低速に入れるしか手法はない。
そうしたら、プログラムによってギヤがニュートラルになった。
もう、スべき手立てはなく、あのようになるのは必然。
コレはバグだ。
そうなった時のプログラムはこうなる。
まず「エンジン回転を上げて」「直近のギヤに自動的に入る」。同時に「排気ブレーキのスイッチが入る」アクセルを離したら「エンジンの回転が落ちる」ようになること。何の難しさもなく機械も壊れない。
その昔エレベータが落っこちた構造、チェーンが切れてディスコでシャンデリアが落ちた構造と同じだ。
エンジンの側にブレーキがあっても何もならない。車軸を減速させなければ、それでギヤがニュートラルになって増速してたら、車軸側でもブレーキが掛かるようになっていないと、安全システムとはいえない。
それが天下に誇る「ふそう」の誉れではなかったのか。
ワタシが昔、泊まりがけで学んだ京都のエンジン学校では、そうした矜持がバンバン感じられたものだったが。
更に運転手は、立木に直接ぶつかってお亡くなりになったが、乗客は昔のバスの構造なら助かったはず、新幹線はひっくり返っても、天井と床の間に挟まって死ぬ確率は低いので、そうした考えをしていれば備わっている。
窓の桟の強度によって天井が支えられるべきだが、このバスは窓が広くそうした考慮が為されておらず、電車や都市バスに比べて、ひどく弱い構造になっていたため、あの惨事を大きくした直接の原因であると思われる。
ブレーキやギヤのヨタによる転落なら、二人の犠牲で済んだはず、その他の方はバス車体の脆弱性によるのではないか。
SMAPで論評する暇があるのなら、この状態を改善スべき発言が欲しい処。
お亡くなりになられた方々や残された方には、さぞや無念であろうと思います。
ご冥福をお祈りするとともに、犠牲者に成り代わり生きられた方は、こうした無念を晴らして、再び起こらないように勉強して、技術が人々の幸せに繋がるような、残りの生き方を選択して欲しいと思います。
以下wikipediaより転写(部分)
イーエスピーは、中古の三菱ふそう・エアロクィーンI(MS8、2002年10月登録)を購入して使用して(略)
長野県警の検証の結果、バスのギアがニュートラルになっていたことと、ブレーキ部品に異常がなかったことがわかった。県警は、ニュートラルのためエンジンブレーキが効かず、減速しきれなかった可能性があるとみて調べを進めている。
事故車は6段変速のマニュアル車で、運転手が高速ギアから低速ギアに無理に変速しようとすると、エンジンが回転数が高くなりすぎることによって壊れるのを防ぐため、ニュートラルか元のギアになるようプログラミングされている。
国交省の関係者は「大型車の運転に不慣れな運転手が急に低速ギアに入れようとしてニュートラルになり、エンジンブレーキで減速できずパニックになった可能性がある」とみている。但し、事故の衝撃でギアがニュートラルに動いた可能性もあり、長野県警は慎重に調べている。以上wikipediaより転写

月曜日, 1月 25, 2016

生命の連鎖:生きてる奇跡

草も動物も生命の連鎖の中に有る。

生を受けた目的は不明だが、生きた証として少し遺伝子を変えて子孫に引き継ぐ使命を帯びているらしい。
だからか、誰しも子孫を残そうとする。
イネも雑草もなんとかして、はじめは「分げつ」と言って、根から株分けして新芽を出したり、ランナーや茎根を這わせて、その先に子株を育てる。

やがて、花を咲かせてその種子を付け、種を遠くに運ぼうとする工夫をしている。
必ず、二通り以上の子孫の増やし方を持っている。

それは、生を受ける環境が良好であると限らず、種子を飛ばしてもそのことに依って、子孫を残せるとは限らないからで、「今生きている」その時は良好な環境なのでまず分身して増やし、それでも種子をもうけて遠方に飛ばし、開拓を試みるのである。

たかが雑草一葉でも、努力を怠らないのである。

ヒトの場合、母が女の子を授かると、卵巣の中に卵子を10,000個作って、出産前に持たせるのだそうな。
何故か、いま母体は、身体に恵まれて子を授かることができた。しかし、娘が育つ環境が劣悪だと子どもを育てることができないので、いま母にできる事全てを行っておこう。

というわけで、卵子を作って娘に持たせるのである。

男の場合は少し違う、精子は種付けなので、より強い環境に順応した種子がほしいので、成人した暁にそれは用意されて、使われるのである。

母体では、そのうちのひとつないし二つの卵子が選ばれて大きくなって、精子を受け取る準備をして待ち受けるが、29日たっても誰も現れないと、お役御免になってその卵子は子孫に貢献できずに短い一生を終えるのである。

逆に生を受けるということは、父母、祖母、曾祖母、ご先祖さま、サル、ネズミ、爬虫類、魚、ミジンコ、アメーバ、アミノ酸、というように進化を経て、姓を繋いできた証だ。

ワタシが今、生きているということは、この生命の歴史の中で、太古にアミノ酸として海の中で生を受けた時から、「一回も途切れずに繋がった己にまつわる生命の連鎖」の線上の最後の瞬間に立ち会っているのだ。

道端の雑草であっても、おなじこと、途中で突然宇宙から降って湧いたのでなく、アミノ酸としてはじめて生を受けて、菌であったり苔であったり、海藻であったりして、億年の生命の連鎖のその途切れなき証として、種子を飛ばして双葉から成長する。
どんな命でも生物には、偶然選ばれて生きているという奇跡の証なのである。

畑の雑草を双葉の時に、邪魔だからと摘んで枯らしてしまうと、ちっぽけな草にまつわる、この遠大な生命のドラマは潰えてしまうのである。

ヒトの場合、このようにして選ばれしひとつの卵子と、これまた偶然に一つだけ添い得た精子によって、遠大な生命の連鎖の最後の証として、誕生してくるのである。

地球の裏側、原始時代であったのかもしれない、戦国時代のチャンスだったかも、それなのに「いまの日本人」として、この平和な時代にここに生を持って、立っている。

全く以て、選ばれし民だ。

為さねばならぬことが、有るのではないだろうか。

日曜日, 1月 24, 2016

ライバル考

生きていくには、生き方のライバルが要る。

友人ではない、隣人でもない、必ず環境が違うので比べようにないのだ。

土とともに生きていると、同じ土を掘っている先祖が、ライバルであったことに気づく。

父、祖父、江戸時代のご先祖、当地は律令の裏街道沿いなので、律令時代のご先祖さま、みんな同じ土地を耕して、田んぼの石を拾って、子孫を残して死んでった。

ワタシも、その田んぼに立って、石を拾ってる。

土石流が襲ったらしく、山砕石の段丘ができてる田んぼの土手。

その田んぼで、泣きながら歯を食いしばって、砕石を拾ったご先祖が居て、田んぼが有る。

軍隊が通りすぎた時、山に逃げて田んぼを蹂躙されても、我慢して生きて、子孫を残したご先祖が居て、いま、ワタシは石を拾っている。

戦争に駆り出され、逃げ惑った父が居て、ワタシが田んぼに立っている。

ワタシが、頑張って、息子が立つことができる。

そのご先祖さま、子孫が本当のライバルだと、気づいた。


どうだろう、命からがら、食うや食わず、冷害、土石流、先祖の生きた時代は一時も平和の時がなかっただろう。

それに比べて、ワタシはどうだ。

戦争にも狩りだされていない。
喰うにも困っていない。
教育も充分でないにしろ、先祖に比べたら知識もツールも群を抜いてる。
好きなことやって、好きなこと言って活きている。

先祖が数珠の珠のひとつひとつだとしたら、曲がった珠、欠けた珠、ゴツゴツの珠、大きいの小さいの、様々だろう。
血まみれのも有るだろう。

その先祖が、途中で殺されず、苦しい中で挫折せずして、子孫を残したからこそ、今ワタシがこれを書いていられるのだ。奇跡に近い幸運だと思う。

ワタシの珠は、一番丸くて、一番大きくて、一番輝いていなければならない。
さもなければ、冥土に行ってご先祖に名乗れない。

せめて、精一杯生きて、大きな珠、まんまるな珠、出来れば透き通って、光り輝いた珠にしたい、と強く思う。

死ぬときに、それが判る。
大きさ、まるさ、透明度、輝き、死ぬ時にはじめて判るのだ。
だから、少しワクワクする。

そういう風に生きてれば、その時がいつ訪れようと、楽しみなのだ。

武士道とは、死ぬことと、みつけたり

ヒトは、絶対に死を体験することはできない。

死に至る最後の瞬間まで意識があるとすると、これから死に至る長さと、これまで生きてきた長さは、意識の中では釣り合っている。

ワタシは今66歳だが、これまで生きてきた66年間と、例えば百歳で死ぬとすれば、これからの33年間の長さと濃さを重ねれば、同じ重さになって釣り合う。

百歳になって、あと1日だとすると、生きてきた百年と残りの1日は同じ重さだ。
あと1秒でも、両者は釣り合う。

意識の中では永遠に死ねない。

ヒトは死んだことに気づかずに居て、意識の中では永遠に生きているのだが、廻りから見るとそんなこととは関係なく、時間は進んでしまうので、その方は死んでいくのだ。

死とは、そういうことだろう、とワタシは考えている。


では本当の死に方とは、釣り合った後の方の生き方を言うんだと思っている。

つまり、死に方とは、今からの生き方を言っている。

いさぎよく死ぬということは、潔く生きること。

いさぎよく生きるとは、かっこ悪くても精一杯努力して、いつ死ぬって実は解らないので、生きてる間は生に執着して、ひたすら活きることだと、ワタシは考えています。

どこかにぶつかって、遣り残してポックリ死んだら、それでオシマイ。
生きてるうちは、泥臭く、かっこ悪くが、かっこいい。

プロフェッショナル

義務教育で「勉強したい」と志したヒトには、環境を与えることの重要さは、ワタシが体験しています。
今でもその意欲が、この瞬間も突き動かして、活きて生きています。
一つだけ言っておきたいことがあるので、巻頭のページで書きます。
プロになった証は、そのジャンルの古典を紐解いた時。
古典から再度読み、己の職業がどのような歴史をたどり、今日に行き着いているのかが判った者が、プロフェッショナルのスタートライン立つ。
それを、再度、実践してみることにより、より深く知ることができて、ものまねから改革に着手することができる。
改革がなった時に貴方はプロフェッショナル。
ちなみに、ワタシは学校では教えてくれなかった機械の古典・漢文(生き方から戦略)・日本の測量・土木建築(日本とローマ)・登記と法律・哲学・経済・世界の農業と学び、プロとして生きてきました。
本を読むということは、その内容を読むと同時に、本には書いたヒトの人生のすべてが込められていますので、それを読むというより人生を「頂戴する」のがコツかなと、考えています。
そのように読みますと、記憶力は必要なく、知り得たもの感じたことが、全て自分のモノになるのです。
カッコいい事を言ってるのも、全て昔誰かに教わったセリフや考え方、所詮借り物だけど、人生そのものが借り物なので、それで充分なのです。
今は、江戸時代の酒造りの技術にはまっています。
NHKからは永久に出演依頼がないので、プロの生き方のコツを、少し早いけどここでお知らせしますので、参考にしていただければ倖いです。

土曜日, 1月 23, 2016

日本メソッド? 日本イズム

気がつけばワタシは、何回かまとめて学習していた。
最初は小学校の時、本の虫で小学校5年で分校から本校に進んだ時、図書館の大きさに惚れて、毎日放課後は図書館に居て読み、すべてのジャンルの本を数冊ずつ借りて戻った記憶がある。

2回目は中学2年から3年、家が貧しいので、父に「大学までは出せないが高専には出せる。」と謂われて、Bクラスだっったので3時まで勉強した。

3回めは設計室に入った時、高専では怠けていたので、計算が何もわからないので家に帰って、材料力学や電磁気論を毎晩読んだこと。

赤旗を振って失業して国家試験を4時までやったのが29歳の時、晴れて代理人稼業で一定の富と名声が手にできたが、一度知ってしまったものつくりの魅力にはあがらえず転職して、究極のモノ作りに農業を見つけ、自然栽培に向けて再び勉強の日々を送っています。

その度に山ほどの本を処分して、新しい本に埋まる日々を過ごしてきましたが、おかげですべての分野で自ら加工する技術と現場の理論を身につけることができています。

代理人稼業が、またお客さである経営者が考えなければならない意識に、精通させていただけるようになりました。
立ち位置は、交渉人ネゴシエーターとして評価もいただいて、今をなんとか生き抜けています。

読んだ本は、社会に出て40年間一日一冊を目標にしてましたので、そういう量になります。


さてその、生き方のコツは、「目的と目標に向かって、それぞれにPDCAを回して今日を生きる。」ことを見つけました。

ワタシの目的は、最初は「自分自身の長活き生き」でしたが、最近その目的を「みんなの長活き生き学校」にこっそり替えました。
コレに向かって、長いスパンのPDCAをまわすべく、明日の目標を定めます.。

目標に向かって、短いPDCAを回すべく「いまを精一杯生きる」ことだと思います。

最近わかったことがあります。

今の新興国は中国も含めて、昔、ワタシが体験した時代を生きています。

ワタシが入社した頃1970年代。めっき液の垂れ流しをしてましたね。図面の材料指定は、「鉄・アルミ・ベーク」、品質は、「現合」なんて書いてありました。

それを一つずつ、お客様の流域のBODやPPMを下げることに挑戦して、機械を受注し会社を立て直していきました。

シャフトには嵌め合い記号やリミットを定め、脆性破壊を防ぐべく、段付きのR部分に応力が集中しないような、旋盤の加工手順を書き込んだり、材料をJIS記号に替えたり、焼入れや熱処理研磨の手順を定めて、顧客に寄り添う壊れない機械に変えていきました。

この時培った改善の手法を、かの国の人たちに伝えることで世界を変える事ができると気づきました。
そして、伝えるべきは教えるのではなく、「その心や手法の開拓技術」であること。

体験して自ら考え「社会のためお客さまのために」を伝えることで、私たちが手にした「日本の技術の心の部分」を、新世界に向けて輸出することが、日本の立ち位置であることです。

その旗手は、若いヒトではなく、1970年代を生きたあるいは、カイゼンを生きた世代であることに気づきました。

そんな訳で、ワタシも自分の立ち位置は「こころを伝えること」であると、気づくに至りました。

日曜日, 1月 17, 2016

隷属考

奴隷制度がまかり通っていると思う。

若い貴族が遊ぶために、65歳の年寄りに夜行で往復運転を強いる。

本来なら、年寄りが遊ぶ時の労働力として若者が借り出される。これが平等の社会の仕組みだ。

まだ年端もいかない、額に汗して働いたこともない若者が、命がけで年寄りをこき使う遊びに付き合わされた人々、奴隷とまでは言わないが、隷属を強いてはいないだろうか。

その年寄りを安く調達して、薄利を貪った旅行業者。

ひとり1万でも売上40万、バス運賃は最低料金の3分の2の18万円、高速料自前だったら日当は、昼寝付きの2夜連続運転で、ひとり2.5万円で雇わざるをえないバス会社。

これを隷属といわずしてなんというか。

乗るときに、運転士さんに「お願いします」と云わないのだろうか?
降りるときに、「ありがとうございました。」と云わないのだろうか?

自分の祖父の年寄りが運転していることに、気づかなかったのだろう、罪の意識を感じるべきなのだ。

感性が鈍ると、命を掛けたお遊びになる。いわば、火遊び。

これまで私は、バス旅行を計画する時、昼間の運行でしか行程を考えなかったし、最初に安全を考えて価格をはじき出して、予算で行けるところまでにするのが常識だと思っていた。

コレは金のあるやつが、貧乏人を隷属しようとしている社会の歪に他ならない。

こうした歪に対して、弱いやつだけ非難していると、ニワトリのようになって、仲間のケツを突く輩になってしまいかねない。


真実を見つめる必要がある。

ヒトが死ぬ事故は、人数だけ原因があると、私はいつも思ってる。本当の原因を掴み、糾すことをしないと、安全を手にすることはできないと思う。


1. 運賃込み1万円でスキーができるなんて、まやかしに気づくべき。
  60kgx40=2.5トンの荷物を運送屋に頼めば、片道でも15万は請求される、自分は荷物以下の運賃で運ばれることに、気づくべきだった。

2. 本当の貴族は、オヤジのベンツかボルボを自分で運転していく。
3. バスにボルボやベンツの安全性は微塵もなく、外壁はトラック以下の仕様であることに、誰も異を唱えない。
  遺族は、2度とこんな事故は防ぐべきと思うのなら、バスメーカーに損害賠償訴訟して、ほんとうに安全なバスを造らせるべき。

4. ブレーキペタルやアクセルをいっぱいに踏み込むか、足を載せていない時には、ABSブレーキが効いて、止まる構造にするのは超簡単だが、それすら考慮していなかった。

5. 国道なのにガードレールは、大型自動車に対して、何の意味もなさない飾りであることはおかしい。
  下り坂の路肩は、築地等して道路から落ちないようになっているべき、それが国道ではないだろうか。もう10数m先に突っ込んでいれば、誰も死ななかったことに気づくべき。構造を改善すべきだ.

6. 前の高速道路事故でもそうだが、道路際に命の危険の堅牢構造物は、有ってはならない。
  太くなった木なら切って置くべき、諏訪の木落し坂や土俵のように、やわらかなクッションになる植生なら死なずに済んだ。
  運転士は、木に激突しているし、大半は木が天井を押し下げ、車体との間に挟まって、お亡くなりになった。

  バスの構造と道路敷(路肩も道路の構造物であるので、安全に考慮して管理すべき教訓だ)の不備による痛ましい事故といえる。このことも遺族は運輸省を訴えるべきであろう。

7. 運輸省も、己を省みず、バス運行者だけを責めようとしているが、己が改善せずして従属者の改善は難しいことに気づくべき。

14項目あげたいが、詮ないのでこの辺で、

私達は、お客様は神様ではなく、平等の人間同士。

「お願いしてやって頂く、そしてそれに感謝して、費用をお支払いさせて頂く」

この気持を以って生きていかねば、この先長生きができないことに気づくべきだ。