無農薬で自給自足

 今年から、無農薬農業にジャンルに、米つくりを加えます。 冬季湛水にて自然豊かな田んぼにして、ほたるの居る田んぼを創ります。   誰でもが簡単に無農薬の田んぼつくりができるよう田んぼを用意し、定期的に実習教室を計画して、自給自足の米つくりを支援します。  武石川の源流のきれいな水で米つくりをしましょう。  宮 下   和 美 

火曜日, 8月 22, 2017

モンゴリアン8(時代考証)

 鏑矢の起源は、古代モンゴルの匈奴王が、鳴り矢を以って射る事により、敵の位置を知らせしめ、他の弓手が一斉にその方角に打ち込むことにより、漢民族に勝利して中原に至った。
 その故事により嚆矢とは、始まりの「きっかけ」のように使われているだけで、鏑矢が実際に使われることは中国では絶えた。
 一方、日本においては、小笠原流の流鏑馬の神事により、鏑矢が使われて残りました。
神事にのみ使われるというのは、その起源に関わっていることを意味していて、鏑矢が日本に伝わった当初、鏑矢を操る民が、乗馬における横射掛けを伝えて、それを伝承した民が居たことの証でもあります。

 小笠原流の書物における初出は、『吾妻鏡』にての、早くも文治6年(1190年)には、頼朝の射手として鶴岡八幡宮の弓始めに金刺盛澄らと共に参加しており、建久2年(1191年)、頼朝が大壇那となって再建された善光寺の落慶に供奉し、建久4年(1193年)5月の頼朝による富士の巻狩では、藤沢二郎、望月三郎(重隆)、祢津二郎らとともに弓の名手と記述されています。 
 この面々を眺めると、藤沢は金刺の祖父の名字、望月、祢津ともに、信州上田佐久において、平案時代から駒を産していた地域の豪族、日本における流鏑馬のルーツが信濃にあることが伺えます。

 壬申の乱の折、大海人皇子は宇陀を経由して、日昇の方角を背にして勝利を得ている。
この戦法は、普通の攻め方ではなく、突厥の兵法で、7月東北東の方角より攻め下れば、丁度、山の端から太陽が昇り、敵はその輝きに向かって矢を射ることができない。
 しかし、太陽が味方してくれるのは半時ほどなので、奇襲と乗馬に拠る射掛けでしか成功し得ない方法であり、大海人皇子は、流鏑馬の起源に関わる軍を味方にしていることが解る。

 当時、それを可能にするには、大陸からの流鏑馬の伝達と育成ができる軍神を味方に引き入れ、大軍の養成場所をどこかに確保したに他ならない。
 その後、駒の育成の足跡が、伊那、上田、佐久に広がり、洩矢氏の勢力範囲を広げるがごとく、展開されているので、この地方が有力である。
 流鏑馬の技法の、弓に両手を使い横方向の射掛けを、馬を走らせてするには立ち騎馬で、しかも馬を意のままに操る人馬一体にするには、武士のままでは不可能で農民の意識を持って、幼馬の頃から接しなければならない。
 鎌倉時代に、流鏑馬の技が上田、佐久の武士に引き継がれているのは、牧において騎馬兵の鍛錬の機会も得られる仕組みが存在していなければならない。

 皇子はその後、天武天皇の勅で軍人に騎馬兵の訓練を義務付けていることからも、この手法が日本を制する戦法としても、東から唐と対峙するにも重要な手応えを感じていた。
 
 皇子の領地が美濃であり、須波の兵の加担も記録されている。洩矢神と須波氏の和解も残されており、須波氏と駒の育成は切り離して考えられず、流鏑馬の発展経路からも須波氏が流鏑馬の源流である可能性が大きい。
 須波の神の社は、正確に烏帽子岳の頂上を向いている。
 このことから、頂きがちょこんと持ち上がった饅頭形の山を崇める流鏑馬の民で、祖国を失って一族が流浪に出られる民は、モンゴル平原に生きた突厥の一族より他に見当がつかない。

 この軍神は、百済などの朝鮮系の人ではなく、親の代には平原を駆け巡っていた。
タケイオタチノミコトは、本当の呼び名も、どこから来たかも言えないけれど、ちゃんと日本に居た証である、阿蘇岳にいったん居を置いて「タケ・イヲ」、そこを引き払って再び旅に出た「オタチ」の一族「ミコト」に他ならない。
 阿蘇で生まれた息子をタテミナカタノカミ「阿蘇岳南方の勇者」が、須波の神になった所以であります。

 後に出てきますが、天武天皇は都を2ヶ所整える必要性を感じて、天智天皇の近江大津の宮から飛鳥浄御原宮に遷都をなし、もう一箇所を科野須波に具体的に進めていた。
 翌年に没してしまうので陽の目は見なかったのですが、それが科野大宮社の石碑に詳細に書かれています。
 また、騎馬兵の重要性に触れ、天武13年(684年)閏4月5日に詔を発しており、武官に武装と用兵の学と騎馬の訓練を命じて、罰則も併用したところは、鏑矢の起源に倣っていることが見て取れます。
 
 本人は、本気だったのでしょうね。
 不運なことに、翌年5月突然の病気で没してしまうのですが、まだ開かれて20年も経たない科野の山に都をなぞと言えば、そりゃあ身内からでも、お隠れを希望するものが出ても不思議ではありませんね。

月曜日, 8月 21, 2017

モンゴリアン7(条理の田をつくる)

 州羽において、聖山の突厥山を仰ぎ見る岡に社を建てることとなった。
 崖をまっすぐ上る用に石段を整え、上の平に社を構えると、それぞれきちんと、聖山と正対している。まるで最初から準備されて待たれていたことを思うのである。
 州羽の神は、この時からこの地を科野國として「須波」と称した。

 その頃、皇子の残した他田舎人率いる兵たちは、州羽の海の大河をせき止めている、さざれ石の岩の岸辺の裏側を海に向かって掘り割り、そこより流れでる水が、二尋ほどの土手を残して緩やかに広がっていく道筋に向けて土を取り除いていくと、その流れはいつの間にか谷から流れる川に至り、水は谷に向かってゴトゴト音を立てて流れ落ちていく。
 舎人は、海辺のさざれ石の岩に芝を張って流れを止めた。
 流れが止まると、人々はこの水みちに対して山側の土砂を取り除き、その幅ややはり二尋ほどに至ると、再び流し再び止めて、その溝を下に向かって掘り進めるのだ、その繰り返しによって、やがて水路は背が埋まる程になった。
 他田の舎人は、こんどは海の中に大石を投じ石壁を作り、そこに芝を貼ると流れは止まり、芝を外すと流れができた。
 谷口には石を積みて同じ仕様の水門をしつらえると、同じことが次の谷に向かって始められた。
 水みちが大きな谷を超えた。同じように大水みちは掘り進められていたが、こんどは谷口よりやや下方に小ぶりの水門が作られて、ひと尋ほどの土手を残して肩幅ほどの水みちを造っている。
 その水みちを20尋ほどいくと、土手を削って水が流れ落ちるようになっていて、遠くからみるとすだれのように、幾筋もの流れが流れ下って、そこに小川ができている。

 小川のいり口から20尋ほど下がったところに、小川と小川の間をつなぐよう大石を並べて、そこに芝や土を張りて、ひざほどの土手を整え、小川の水を向けてやると、そこに池ができた。
 兵士は、池の浅瀬を棒で突いたり掻き回したりすると、泥は深みに流れ、やがて私たちが知るところの田んぼができていくのである。

 須波の神は、これを見て、「このならしの仕事に、馬が使えるではないか!」と、気づいた。

日曜日, 8月 20, 2017

モンゴリアン6(諏訪氏)

 古事記において、現在まで続いている氏で最初に登場するのが、諏訪氏なのだ。
だが、その記載は諏訪ではなく、州羽であった。科野國州羽之海の故事から、州羽と名乗れ。と具体的に指示されて、名字となって登場している。
 その故事を隔て、歴史上に諏訪氏が初めて登場するのは、鎌倉時代になってから、而も出目は定かではなく、ただ流鏑馬が限りなく上手であった事により、諏訪氏を認められた様子で、その前の姓は、金刺とも手塚とも藤沢であるとも記録されていて、諏訪信仰により諏訪神社が全国に広まっていることすら、謎なのである。
 では、諏訪ではなくスワの呼び名であったらどうなのだろうか?
日本書紀など古文書に出てくるスワ氏は、タケミナカタノ神が州羽之神を名乗るわけであるので、時系列に並べると、
1. 科野に入る際に、洩矢氏と戦って和解している。
2. 大海人皇子軍に須波の兵が参戦して勝利に寄与している。
3. 都の水害に際して、科野國須波の神が招聘されている。
4. 水田3段が須波の神に寄進された。
5. スワ郡が科野国と分かれて、また併合されている。
 等々なのであるが、鎌倉以前数百年以前の記録であること、諏訪の文字がどの字を使われていたか?について、諏訪方の発表であったり勝手に諏訪と換えていることもあり、スワ氏の足跡はあれども、同一かどうかの信頼度は薄い、
 筆者は、そのスワ氏を一つの線でつながる諏訪氏の起源として、一致線を見出す努力を加えて、作為的ではあるが科野國の起源として、組み立てようとしている。
 その一番の事件が、鎌倉において披露された諏訪氏の流鏑馬の技量だった。
当時、日本一の流鏑馬の技を以って、いのちを拾っただけでなく、諏訪社の起源になったのである。
 諏訪社の主は言うまでもなく守矢氏・諏訪氏の二頭立て、一方の守矢氏は68代続く信濃一古い名門なのである。一代30年で交代しても2400年の名門、鎌倉時代1200年代に2頭立てを許した経緯がある。
 而も、戦ってのことではない、許すだけの十分な理由を探し出さねばならない。
 一方歴史書によれば、長野県に弥生人が登ってくるチャンスはなかった模様。
「科野は山険しく人住めない。」と謂うような記述あるのみ。
筆者は一方で、現代の自然稲作を研究実践して居る者である。弥生時代における稲作の方法が現代に通じると信じ、古くて新しい弥生の開墾の実態を模索している。
 かの時代一日で行って働いて帰って来れない距離に、新しく水田を開くことは不可能なので、海岸に至る信濃川・天竜川・姫川・木曽川のいずれも、急峻な谷川がその遡上を阻んでいたので、弥生時代に長野県側で開墾が為されたことは無いというのが妥当な結論なのである。
 スワ氏は、流鏑馬の源流に位置する立ち位置が必要なのである。
諏訪氏とは別に、古墳時代になって信濃に急激にヒトが入ってきたことは、遺跡により明らかで、その期を経て、律令時代なって突然に、信濃全体が御用牧になっている。
 また歴史のイベントでは、1183年に木曽義仲が唐突に、小県郡依田の荘から出馬をして、破竹の勢いで京に上るのである。
 何の前触れもなく辺境に突然現れ、疾風の如く国家を制したのである。
ビックリではないか?そうではない、中国の例をみると普通にあった。モンゴル平原の狼達だ。
 騎馬兵であるところに共通項がある。
 その昔、中国の馬軍の有り様は、2頭立ての戦車に3名が乗り、御者・槍・タテの役割分担にて、華麗に戦っていた様子。また「連環馬」があり、3頭から5頭の農耕重馬を丸太にて横に繋ぎ、その前にタテをくくりつけて、押し寄せてくる。ヒトなど一気に踏まれてしまうので、逃げ惑うよりほかなかった。
 モンゴル起源の遊牧民は、ひとり馬にまたがり、手綱を持つまでもなく馬上にて、疾走しながら縱橫に弓をつがえて射ったのだ。
 紀元500年から600年頃のその兵は、突厥の兵であり、鏑矢と例の兜が特徴。
馬と弓矢と鉄の製造をよくこなし、ひとりでその総てをマスターした万能の騎馬神として知られている。
 馬はひとりとしか生きずに、主を失った馬は食を断って餓死したと言われている。馬にも哲学を躾けた勇者は面白い風習も伝えられている。
 勇者を相続したものは、母以外の女性を引き受けたのだそうな。兄弟なら兄嫁その愛人もまた。息子にあっても同様であり、とある時、老婆はどうかと謂う場面では、親類筋から「秩序は守らねば示しがつかぬ。」とのことで、老婆もまた一生を安堵されたそうで、勇敢かつ温情の民であったよう。
 その歴史上一番の特徴は、鏑矢に拠る流鏑馬術がすごいこと。
 世界の騎馬兵を以ても、鏑矢の流鏑馬の起源は、突厥の阿史那氏と鎌倉時代の初代諏訪氏のみ。
 
 騎馬兵にあって馬を食べる民は突厥の兵、飼育農民であって馬の生肉を食するのは、熊本(詳細場所知らず)と長野県上田の農民のみ。
 スワ氏は、歴史に登場してすぐに戦っている。敵は洩矢氏と天智天皇派。
スワ氏は、水害にノウハウを持っていたらしい。水田もこなしていた。
 洩矢氏が紀元前400年頃から、諏訪地方で勢力を誇っていたのは何故か?
縄文の長野県の特徴は何か?これはもう決まっています。小県郡長和町大門の黒曜石遺跡、「星糞峠の鏃」です。
 世界的にも有名、縄文当時は2万年前から採取されていたらしい。
守矢氏68代の起源はこの鏃の販売を手がけた洩矢神に他ならない。
 当時の貨幣は何か?貝という説もある、否。「鏃」であっただろう。
矢羽もまた製造困難であったそうな。それは今でも竹製の矢羽根はまっすぐに飛ばない。かなりの腕を要する技なそう。
 だとすると、最初は原材料の黒曜石、次に鏃、そして矢羽根が商われていたと、想像に難くない。
 洩矢神、タケミナカタ神に会って、騎馬兵の総てに魅了されたことだろう。
今で言えば三八銃にファントム位な違いがある。
 鏃が鉄しかも唸って飛ぶ。見たこともない大カモシカが思い通りに動いてくれる。
 その後1200年代に諏訪氏をすんなりと受け入れられる「和解」の真実を探しだそうではないか。

土曜日, 8月 19, 2017

モンゴリアン5(日輪の子)

突厥の兵、阿蘇に遊ぶ頃の名を阿居王、その子をナンジン。
 父は、ひとつの戦いが終わると筑紫都督府から戻ってきた。
 阿居王はナンジンを伴って馬にまたがり、阿蘇の平原を駆け西の山に登って時を過ごした。
 ナンジン「なぜ、馬を食べるのですか?」
王曰く「我らは、馬と共に生き、馬も我と共に生きる。」
「我らは日輪の生まれ変わりなので、自ら死ぬことは許されないので、馬が死ぬと新しい馬を育てて、それとともに再び生きるしかない。」
「馬は我が死ぬと新しい主を探すことなく、食べることを止めて死んでしまう。」
「放っておくと魂の行き場を失い、死ぬことを全うできない。魂を受け取ってやらねばならないのだ。」
「だから、馬の肉は焼いてはならず、生のままを食べるのだ。」
「そもそも食とは、我らが今日食べたもので、明日を生きるのだ。」
「日輪の子は、強くなければいけないので、強い肉は食べても良いが、弱い者の肉は食べてはならない。」
「弱き者を食べれば、明日の我は弱くなってしまうから、日輪の子ではなくなる。」
「例えば、うさぎは弱いので食べてはならない。」
「弱い者を追いかけて遊ぶこともいけない。殺すこともいけない。魂が移ってしまうからだ。」
「戦いで負けた者の肉も、食べてはならない。」
「戦いが終わったら大地に埋めて、魂がその者と共にいつもあるようにしてやらなばならない。」
「必ず我より強き鹿や猪を食べなけれなならない。」
「馬を降りて狩りをすれば、我より弱き者を狩るようになり、それは食べてはならない者になってしまう。」
「したがって馬と二人で仕留めたものは、強き肉の魂なのである。」
「強き者の魂は滅びるわけではなく、我の身になりて我の中に魂を移して、彼が本来生きる分だけ生きることができる。」
「だから、血・肉・内蔵すべてを無駄なく食べるのだ。」
「突厥の兵は、強き馬の魂を受取り、我の中で共に生かすのだ。」

金曜日, 8月 18, 2017

モンゴリアン4(山上の契)

 天智天皇2年7月20日(663年8月28日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、同6年3月19日(667年4月17日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、同7年1月3日(668年2月20日)中大兄皇子が漸く即位した。

 天智天皇3年春、星糞峠まんじゅう山、今美ヶ原台地の草原の東に史那の國を発見し、洩矢神、タケミナカタノ神、大海人皇子らは、突厥の兵の早業に拠って仕留めた鹿の肉を喰らいながら、この素晴らしい異国の騎馬と騎馬兵の装備と、洩矢神のしつらえた精巧な矢羽を、互いに比べたのだった。

 突厥の民が謂うに、「この地は空気が薄いので良馬が育つ。」この地で生まれて育てた馬と人は、海岸まで降りると途端に強靭な力を出すことができる。
 このことを学んだ洩矢神と皇子は、ここに「山上の契り」を結んだのである。


 洩矢神は、これまで鏃の矢羽を商っていたが、これからは鉄器の矢羽を倣い、また騎馬兵の仕組みを表で商い、
「この台地を通して騎馬兵を都に送ること。」 タケミナカミタノ神は、聖山の麓に居を構え人馬の育成を行い、史那の國すなわち見渡す限りの科野を縦横無尽に走り回れることを見返りに、この地を永住の地と定めることとなった。
 そして皇子が天下を取るまで、全てを覆い隠し秘密裏に行うことを約したのである。

 洩矢の配下の案内により今の武石の谷の北の稜線を進み、一度川沿いの平らに降り立ち再び山路を辿って、ついに一行は大河の辺りに至った。
 大河の右の山は、中洲のさざれ石が積み重なった山が崩れて羽になっており、そのさざれ石の層はそのまま大河に覆いかぶさって、何筋にも渡って大河をせき止めて、一番高い岩筋の先は流れをせき止め、まるで海のように滔々と水を湛え、大音響とともに流れ落ちていた。


 大海人皇子は謂う。「ここを科野國州羽の海と名付けよう。タケミナカタノ神はこの地に留まり、今日より『州羽之神』と名乗り、科野國の國司たるべし。」

 「我が部下の他田(唐の語で田の人という意味)を留め、この地を開いて米を作り、それを以って騎馬兵の支払いを為すので、急ぎ騎馬の大軍を整えて欲しい。」


 そして皇子は去り、他田の舎人率いる皇軍は、水路を穿ちて州羽の海より水利を得て、下流に科野國最初の条理田を整えたのである。

 州羽之神は、この南の山に火を放ち山頂の大地を壮大な牧野にして、一緒に旅してきた馬たちを科の野に放ったのである。
 この山頂を暫し下ると湿原があり、底をせき止め池と為して馬の水場も用意できた。
 この岡が、最初の科野の牧なのである。今でもこの岡を「お山」と呼び裾野は小牧と呼ばれている。


 そして運命の時が訪れた。6月の夏至の朝、日昇が最も北に寄った時、なんと聖山の頂から朝日が昇るのではないか。
 すでに日本名を持って州羽を名乗る彼らは、阿蘇の地と同じ名で、こちらでもこの山を烏帽子岳と呼ぶことにして、その日、日昇を仰ぎ見たその岡に社を建て、州羽の社としたのである。


 今日でも、夏至の日にその場所に立つと、烏帽子からの日昇を見ることができ、常田の科野大宮社の社が向いている方角の先、国衙台・須波ヶ岡と呼ばれるその場所には、烏帽子岳に向かった20数段の石段を確かめることができる。
 

モンゴリアン3(騎兵の解説)

 流鏑馬をする騎兵なる、モンゴルの突厥の民を源流とする、騎馬兵のありようは、真田昌之が松代に封されるまで続いた科野の國須波の里のありようです。

 兵と馬は人馬一体、主が死ねば馬は2主に仕えず死ぬように躾けられました。そのためには、馬が生まれたときから1人のニンゲンが寄り添うのです。
 ですから、騎馬兵の騎手とは元々、農民でなければなりません。

 武士でそれを望む者も、やはり、一つの馬を選んで、幼き頃より一緒に厩で育つくらいの気概が必要だったのしょう。
 木曽義仲も、駒王丸の幼名で塩田の里に遊んだ記録が残っていますので、実際には住み込みで学んで居たのでしょう。
 戦場でも、戦いに並行して馬の世話は主が行わねば、馬も、夜討ち朝駆けなどに付き合ってはくれないのは、容易に想像がつきます。

 我が父は、ノモンハンに従軍しましたが、赤紙のいち歩兵でした処、一頭の荒れ馬が居て誰も御せず、誕生の云われから、もともと馬と共に育ったことが幸いして、その荒れ馬を御した処、騎馬兵に昇進した由を聞きました。
 関東軍に流鏑馬の騎兵は必要なかったのか、もうそんな知見は徳川300年の平和のうちに見捨てられてしまったのでしょう。

 さてお話はもとに戻して、農民である馬の飼主の資質はいかほどに、突厥の民はひとりにして一軍に相当する知識と技を持っていた様子。
 星を見て、明日の日昇場所と時間を確実に予測して、敵本陣のその先に回り込む、朝日とともに突撃して、あっという間に本懐を遂げるのである。
 敵はまだ朝餉の準備も整わずに居る時間に、輝く日昇の中から忽然と現れ、疾走する馬上から矢を横や後ろに射れる騎兵に、守るすべなど無かったことでしょう。
 元や突厥が大きな国家を形成していった、その原動力は超エリート軍神の騎兵にあったのです。
 小競り合いや昼間の戦いは、一般の騎馬や歩兵の争いで、流鏑馬兵はまた違った立ち位置を得ていたのではないかと考えています。

 平原ではもと遊牧民、科野にあっては稲作をこなす農民、よく馬を飼い、天文や鉄の鍛造を含める武器製造、戦術を学び武術の鍛錬をした。
 弓矢の製造など、農鉄革竹工技術者、文武のすべてをマスターした、ひとり軍隊とひとり軍属のスパーエリートだったのです。 (突厥の兵の説明は、そう読めました。)
 科野國須波之神の里では、そんな超エリートの養成学校が育まれ、核農家の次男坊を中心に、行って生きる傭兵としての教育が為されて、信濃国の秘密軍事基地に育っていったのです。
 信濃国分寺が平将門により焼かれた理由が、塩田に学海が誕生した栄えた理由が、僧に名を借りて全国からの馬の顧客に応える、最高学府がここにあった様が見えてきます。

 京の戦場に運ばれる馬の移動経路、何故か武石村の築地原に集められ、大布施の山を東に登りますと、頂上に甲子園ほどの広場があります。そこからなだらかな稜線を歩くと、標高2000mの美ヶ原高原に至ります。
 その草原は洩矢神の縄張り、その草原に春に馬と騎手をあげて、半年高地トレーニングをして、稔りを終えた秋の戦いのシーズンに、望みの流鏑馬兵を送り込む。

 科野の流鏑馬兵は、あたかも汗血馬の如くの評価を得ていただろう。
 そのことが、平将門の乱、義仲の西進の勝機、全国の諏訪信仰、武田から始まって徳川まで珍重せざるを得なかった真田兵の不思議が、見えてきます。

木曜日, 8月 17, 2017

モンゴリアン2(決断)

この時点で、日本の人種は、ネアンデルタール人の縄文人と南系中国人。

 朝鮮半島に稲作がもたらされるのは、日本と経路が違って、その頃すでに半島には大陸から、騎馬民族+中原農耕民族が混血して、コーリャンを主食とする民族が居住していたので、海上からの稲作の突然の上陸は難しかったと思います。
 弥生文化が進んで九州地方に文化が芽生えた頃、半島との交流が始まり互いの文化が交換されて、進出ではなくそれぞれの導入と言う形で、大陸から騎馬民族が、こちらから稲作民族がと言うように、混じり合うようになったのではないでしょうか。

 そのようにして、半島の民族が、九州中国近畿とまじり始めた頃、遣隋使などが記録されるようになり、663年に白村江の戦いに至ったのです。

 百済と倭国のひとたちが、近畿圏に大挙して避難してきたことにより、縄文人・南中国系弥生人・朝鮮ルーツの民が混じり合って、標準的日本人が整いました。

 日本の両端に位置する南九州の民や東北の民の独自性は、近畿に半島系の率が多いことと、地理的な分布として納得がいく事柄です。

 長野県と熊本県の独自性は、もう少し違った形です。
先にお知らせしましたように、阿史那を父とする突厥の民、モンゴル高原ハン・ガイン山脈のウチュケン山を聖なる山と崇める民が筑紫都督府に在ったが、故郷の聖山と同じ形をした火山のカルデラ平原に騎馬の育成地を定めた時、その地を阿史那の蘇りを祈念して阿蘇と名付けたとする。

 何故、馬肉を食べるのか?
 突厥は戦闘専門民族なのです。馬の繁殖・乗馬の訓練・騎兵技術の習得に加えて、鉄の製造・武器一式の製造のすべてを一族あるいは、単独でも調達できる能力を有して居たらしい。
 そして、人馬一体が世界一の軍事技術なのです。
 朝日が出る1時間前はまだ暗闇、それを移動して朝日が上る時、敵と朝日の丁度線上に、騎馬ともに居て攻め勝つ能力は、星も読める日輪の動きも読める。
 それでも敗走するときもある。その際に稜線上を移動するのだが、食糧を馬に求めれば一族の半数は戻ることができる。
 そのために、人馬一体、主が死ねば馬も死ぬように躾けた愛馬を、生肉で食べられる強靭な精神力もまた、突厥のひとなのである。
 
 白村江の敗戦を目の当たりにして、さしもの軍事顧問も再度海を渡って故郷に戻る術を失い、更に東に活路を見出すのは、遊牧民として当然の選択ではあるものの、故郷をさらに離れるのだ。
 はじめの阿蘇の地を離れるにあたり、阿の名をそこにとどめ、諡を史那としたならば、これから目指す、阿蘇谷の数十倍の大きさの無人の新天地の名は「史那の國」としてもおかしくはない。

 山をひとつ超え海に出る。そこで大海人皇子の船にて瀬戸水道を渡り、紀州沖を経由して船団は伊勢の海に至り、美濃で冬を過ごし春を待って木曽山脈の稜線を抜け、高ボッチ高原に至った時、洩矢氏と一戦を交えるのである。

 史記によれば、タケミナカタノカミが藤で、洩矢神が鉄輪を以って戦ったとあるが、逆であろう。勝負にならなかったのではないだろうか?
 あるいはすでに美濃勢により洩矢氏は調略済みで、結果一戦交えて和解したことになったのである。
 だが歴史の妙は、この時すでに両者の合意が有って、500年後に守矢氏と諏訪氏の2頭建ての諏訪社が誕生したのである。
 現在、守矢家78代だそうなので、約2400年になるので、35代目ころにあたる洩矢神の下に付くのである。

 一族がそうなるには、もうひとつのイベントがある。和解の後、美ヶ原に向かった一族郎党が東の空に見たものは、。
 大いなるふる里の聖山ウチュケン山であり、阿蘇で暮らした阿蘇岳そのものが、東の空に忽然と現れたのである。
 そうそれが、聖山、烏帽子岳を中央に、左に根子岳、右に浅間山、而も浅間には噴煙までたなびいて。
 約束通りに、見渡す限り360度、史那の國なのである。

 その聖山、烏帽子岳の山頂から夏至の朝、神なる日昇があがる須波の岡を目指し、この地を永住の地にするのである。

 ちなみに、阿蘇の地で地図を開いてみれば、驚く。
 左に阿蘇山、中央に烏帽子岳、右に御竈門山がある、ご丁寧に根子岳まで用意されている。

モンゴリアン1(弥生の民)

縄文人はネアンデルタール人の生き残りらしいですね。
 ホモ・サピエンスが追ってきたような記述がありますが、先に日本列島に渡ったところで、朝鮮半島と海で切れて別々に生きることが出来たため、縄文のヒトたちにはニンゲンと戦うという概念がないようなのですね。

 その後ホモ・サピエンスは紀元前、中国大陸において、南に長江流域の漁労稲作農民の呉越の民、中原の麦や陸稲の農耕漢民族、北のモンゴルの遊牧騎馬民族などに発展。

 長江より南は、田植えを行うことで増収を図る稲作技術の発展により、戦うより稲作したほうが有利になった。
 北の放牧の民は、天候の左右を受けて食糧に事欠き、騎馬技術の発展により、移動することにより世界の技術を得て、馬と鉄を操れるようになり、戦い上手になってしばし中原の農耕民族を襲うことで、豊かさを手に入れる方法を発見した。

 中原の漢民族は、両方の刺激を受けて智慧が発達し、武霊王のように見えを張らずに真似して賢くなる方法を選び、北から攻められたら南に略奪に向かうようになったが、その矛先は農民ではなく、税収の王にのみ向けて、秋になったら租税の米を略奪する手法を用いて、毎年のように秋に王の庫を襲う狡猾な手法を取ったらしい。

 一方、南の漁労稲作農民の王は、船と種を以て国民を豊かにせしめる技を使って王国を築いていたが、戦うすべもなく東の海に逃げる道を選び、近衛兵とともに東の海に逃れた。

 中国大陸と日本の位置関係は、いまも昔も東の太平洋に出るためには、日本列島を触らずには出られない。
 もともと漁労民なので、一路東に逃れるのではなく、海岸沿いに飲水を得ながら東北に進めば、自然に九州地方の有明海にたどり着く、博多湾を回って瀬戸内海に浮かべば、その2箇所は故郷の長江の下流域にそっくりだ。

 浜に橋頭堡を築き、海で魚を採って、山から平野に掛かる河川の沢口に取水路を取って、氾濫原に水田と水路を穿てば、そこが豊かな弥生の里になった。

 元々縄文の民は平和の民びとだが、食の事情は楽ではなく、狩猟と採取の方法でもあり、また煮炊きを覚えていたため、酵素の摂取に間違いがあって寿命が30年あまり、一子相伝の技術移転は不可能で、山内円山遺跡にありように、育児の母系家族と中央における集団生活に拠って、短命ながら平和に暮らしていた。
 そして、その集落は2万年続いた結果、海沿いの千年毎に大津波の来る場所ではなく、海から離れた岡の上に位置していた。

 その海岸沿いの平野は彼らの生活の場ではなく、弥生の民に争いなく与えられ、その水田の米を対価に、弥生の兵士は縄文の女たちを娶り、縄文の民と共に生きることが出来た、だけでなく、乾燥させた玄米の穀物を煮炊きすることは、酵素を再現できる生きた状態で摂取することになって健康に寄与するので、寿命が飛躍的に伸びたので、その効果もあって両者の融和が一気に進んだのである。

 屯田稲作と漁業の混在の生き方を、「漁撈稲作」と呼び、弥生の大きな特徴です。
 ちょうど、インカ帝国の有り様と同じ手法なのです。
 屯田による条理水田は、上流で岩が露出した河床を取水口にすると永久の水位が得られるので、その下流の氾濫原を条理の水田に変え、今日までそこは条理の田として残っているのです。
 条理田が完成すると、兵士は農民となってそこに留まり、今度は子が兵士となってその上流や隣の平野に向かうことにより、呉越の旧王家に拠る弥生化は進んで行ったことでしょう。あっという間に日本全国に及んだはずです。

 上流に行くために、当然ながら徒歩なので1日以上掛かる場所には、その力及ばず、長野県には飛騨木曽谷以外には、たどり着ける者が居なかったのです。

モンゴルの騎兵

科野の騎兵のルーツは、モンゴルの兵法。
馬は人馬一体、育てるところから騎手が担うと、その馬はその主と一体するが、他の地域では、騎手と飼手は別であったことが、太平洋戦争時の関東軍の手法により理解。
馬は、車のようにキーでエンジンかけて、というわけにはいかず、朝から餌食べさせて手入れして、落ち着かせて鞍載せて、戦いに至るまで二時間と手間を要する。 
 だが、食事を一日一食にして、夜腹いっぱい食べさせて、食住を共にする者あれば、それに従う。
 
当時の騎兵の要たるは奇襲であり、早朝より日昇の方角に構えて待ち、朝日を背に一斉に奇襲せしめれば、勝敗は一瞬のうちに終わる。
 それを可能なら占めるのが、人馬一体と、日昇の観察と予測能力。
 闇の中にあって、天文を観察して東あるいは東北東に位置して、確実に日昇時に朝日が背にできる位置に、構える為には、独特の馬の飼育が必要。
 その能をすべて備えたのが、突厥の騎兵システム、その技術を科野に運ぶことが成功したのが、大海人皇子。
 天智天皇後継を、朝日を背にして勝ち取ったのは、有名な話。
 中央道を甲州へ、朝日を前にして走った事があるが、銀色に輝く日昇に向かうほど、恐ろしいものはない。
 何も見えず、矢などつがえるものではありません。
 進軍する方は、簡単。影に向かって突き進むだけ。
旭将軍が勝ち進んだのも、西に向かってのことなので、そのルーツが、須波の騎馬にあったこと、理解いただけるでしょう。

水曜日, 8月 16, 2017

突厥・筑紫・州羽之海



最初の画像は、モンゴルの突厥国の聖山ウチュケン山です。
次の画像は、阿蘇の根子岳烏帽子岳など。
最後は、長瀬からですが、烏帽子浅間山の山影。

不思議と似ているのです。

この三ヶ所に共通すること、共に馬の産地でありながら場肉食をする。
最初の画像の聖山と、上田市から見た烏帽子がよく似ているのです。
まだ、きれいな画像が撮れないのです。
40数年前に書いた絵があること思い出しました。

 突厥のこの山を聖山としていた日昇を崇める放牧騎馬民族が、白村江の敗戦時に、阿蘇に居をしていて、本国に戻ること能わず、そういう立場の民が居た。
筑紫都提府に駐留していた、百済か唐の騎馬兵の残留本体の騎馬育成の民であったと思います。

 中大兄皇子と大海人皇子は共に参戦したと伝えられていましたが、もしかしたら別々に、中大兄皇子は水軍に、大海人皇子は陸路だったのかも、先に戻った中大兄皇子が文政を敷いて天智天皇の代に大和朝廷を整えた。
 陸路を戻った大海人皇子が、筑紫都督府と共に戻ったかどうかは別として、騎馬兵の重要性に気づき、また、爾後は近畿における大和王朝立国の要を武力、それも騎馬兵の育成にあると定め、戻ること能わないその民を説得し、自分の領国の「美濃の奥に未開の高原があり、そこは阿蘇の数十倍で、モンゴル平原に似た気候であり、そこで生きないか。」
と、持ちかけ、敗走追討を隠れ蓑にして、科野にいざなったのでは。

 突厥の民の阿史那(あしな)氏は騎馬と鉄をよくして、アルタイ山脈の南に住み、ウチュケン山を聖山として、500年末から600年に掛けて、東進した一族がいても良い。

 タケイオタチノミコトが科野國造りを任され、タケミナカタノカミが科野國州羽之海に至り、朝敵として追われ降参してそこに住むことを強制される。
 建五百建命「阿蘇岳にいったん居を構えて後にお立ちになった一族」に史那の國が東方の山岳地帯に桃源郷があるのでそちらに行って、「騎馬兵の育成に励んでもらいたい。」と誘ったのではないか。

 阿蘇で生まれて南方で活躍していた元気な王子を「建御名方神」彼を先頭に一族を東方に誘い、須羽の場所すなわち、須波の神の台に立った時、そこに見たものは、古先代が憧れた聖山ウチュケン山そのものの烏帽子岳だったのです。
 その山容はまた、阿蘇のそれと酷似していました。
 日昇を崇める民が、夏至の朝聖山から日が昇るのを崇めて、定めたのが須波が岡・国衙台と呼ばれる須波の神の社です。
 こいつを追い求めて、はや二月あまり、まだ解読の道は遠い。

水曜日, 8月 09, 2017

日本酒の化学

日本酒は、お米から作ります。
糀の役目は、加水分解酵素の供給。
デンプンを加水分解させてブドウ糖を作ります。
ブドウ糖には、CH2OHなる、お酒になる基が含まれています。
葉緑素の酵素が光合成でMgを使って、CO2を炭素と酸素に分解して、炭水化物であるハースの構造式を構築したものを、今度はCO2とH2Oに加水分解して、CH2OHを残します。
これ画像の上から右側への流れ。
そこにCH3を組み付けて、アルコールを作るのが酵母の役目。
そいつが左側の流れ。
そのようにして、酒を作るのですから、もうこれは立派な化学反応。
そうなると、そこにNOxだのSOだのって、他の化学物質が混じると、これはエライことになるのです。
ワインの式、ビールの式はどうなんでしょうか。

化学肥料の罪

農薬は絶対量が少ないので、危険度もそれなりです。
 それよりも、圧倒的に多いのが化学肥料、特に窒素系の硫安・尿素肥料に気を配るべきでしょう。
 植物は、N・P・Kでは出来ていないのです。
 
 そもそも、無農薬農業を目指して、それを可能にする為には、まず第一に、化学肥料を入れないこと。
 化学肥料を入れると、作物は必ず病気になったり、虫が寄ってきたりします。
 殺虫剤・除草剤・抗生物質・展着剤すべてに、不純物がふくまれていて、それが酵素阻害剤となって、作物の細胞面に凸凹を作って、そこにウィルスだの病気に誘います。
 ツルツルの綺麗な、野菜を作るコツは、酵素をふんだんに、自然の肥やしを入れて、大自然にお任せするくらいの気持ちで、育てることです。
 田んぼや畠から、化学物質の痕跡をなくすには、数年以上掛かりますが、総てがなくなると、もう作物は病気とさようならをしますので、そのことが判ります。
 それまで、無農薬の作物は、曲がったり虫に食われたり、腐ったりします。
 負けないように、めげないように、何故なのか?勉強して知識を身につけて、諦めないで対処することが良いと思います。
 そんなわけで、無農薬農家、10年でようやく一人前なのです。

日曜日, 8月 06, 2017

北の事情と日本の事情

実際のところ、ミサイル打たれたたら、今のところ、それを防ぐ確たる技術は、存在してはいないと思われます。

 空手道に先手なし。
北もまた同じこと。自分の方から打ったら、即おしまい。
南もアメリカも日本も同じ、ミサイル打ったら、みんながいっぺんにお仕舞い。

 中東の国々を見習って、北のひとたちは「持つこと」「持っているらしい」ことが、話し合いの緒に当たると、考えているのでしょう。

 孫子の兵法の「三十六計逃げるに如かず」があるが、「なんとしても戦を避けるべき」戦うとそれぞれに損傷が出て、昔の戦は白兵戦だったので、ランチェスターの第一法則に従い、最後まで戦うと少ない人数のほうがゼロになるまで。
 すなわち、勝った方も相手の兵力と同じだけ、将兵を失うので、戦うべきだはなく、三十六通りの謀を巡らせても、戦は避けるべき。
その中には、「全軍率いて敵の前に立ちはだかり、自分のほうが優勢であることを見せつけ、吠える。」というのがあって、それでも戦になるとしたら、踵を返して「逃げるのに勝る兵法はない。」上手く逃げおおせれば、兵の損傷はなく、以前の兵力を温存して、また、改めて謀を巡らせることにより、何時か勝つことができる。

 「戦ったら終わり。」をよく知っているのだろう。
話し合いのテーブルに着けるシーンが、大陸弾道弾と核のセットの保持もしくは、「持っているらしい。」ことを知っているのだ。

 日本政府も、そのことはよくご存知で、さもなければ態々、イチバン近くて攻撃しやすい場所の川内原発など、許可もしないだろうし稼働もさせないはず。

 十分承知の上で、「口先だけの北の脅威」を煽っているのだろう。何故だ。
軍拡が「儲かる」からだろう。
 カケやモリを見ていれば、そうした動機より他に、態々問題を起こす理由がわかりません。
 「仲間に儲けさせておけば、辞めてからリターンも、仲間なら期待できる。」

 動機は気に入らないけど、ワタクシ側がそうした理由なら、まだ、公側では期待もできようが、友達やいとこの企てを、毎日のように会ったり遊んでいて「知らなかった」間抜けに、日本の舵取りを任せておくわけには、いかないだろう。

土曜日, 8月 05, 2017

自衛・防衛について

憲法のことはさておき、
若し、ほんとに「北朝鮮のミサイルが危険である。」と政府なり外務省なり自衛隊が考えているとすると、
飛んできたのを避ける訓練をするのは、戦時中の「竹槍訓練」と発想が同じ。

ほんとに危険と考えてるなら、国民に先んじて、
1、通常ミサイルが打ち込まれたら
どうするのか?
1-1、それから、閣議を開いて議論するのか? 
1-2、打ち込まれた時の被害のレベルに応じて対応するとしたら、死人が出たら?出なかったら?って、決めとくの?
1-3,迎え撃って、撃ち落とす場合、ミサイルが何処に来た時点で、撃ち落とすのか・
だいたい、そんなこと可能なのか?
1-4、アメリカみたいに一旦打ち込ましといて、その後に攻め込むのか?等々議論するのが、危機管理。

2、それが核弾頭だったら?
どうすんの?決めておかなくて良いのだろうか?
2-1、やはり、着弾してから閣議を開いてするの?
2-2、迎え撃つ場合、むしろ被害が大きくなるのでは?

3,大陸弾道弾が、宇宙空間に打ち出された時、日本の領域に入った時?
どうすんの?
3-1、核弾頭だった時に、宇宙空間に於いて、破壊すれば被害が及ばないのでは。
その時、日本の軍事技術で可能なのか?
3-2、その準備がすでに整っている場合、それを国民やキタに知らせる必要があるのでは。
3-3、まだ、そんなレベルに行ってない場合。
何もしないのは、まずいのでは?
韓国や米国と計って、ランダムに打ち上げてもらって、宇宙空間でも、大気圏でも迎撃できるように、整えておかねばいけないのでは?

ただ、「危険だ、危ない。」って、煽るだけでなく、「カクカクシカジカ」って、丁寧に説明してほしいな。

土曜日, 7月 22, 2017

科野國聖地考


 科野國の聖地を探す。
生島足島神社は夏至の日昇線が重要であることを教えています。
夏至の朝に烏帽子の頂から日が昇る場所こそが、科野国の起源の地ではないかと思い至りました。
夏至を隔たること、丁度一ヶ月して、ようやく鳥居場の日昇に出会うことができました。
補正をしなければなりません。
東経138.2452度、北緯36.3733度、標高650mの地点での水平線からの日昇は、
本年6月21日、方位58.8912度から4時24分に、7月22日は、63.0130度です。
現地における実際の日昇は、本日5時17分烏帽子岳への仰角の分だけ遅れるのですが、一ヶ月の偏差角は、4度07分19秒です。

現地は山の上なので、機器を運ぶこと能わず、山専用の測量機「コンパス」を持参しました。
ご覧のように木立に阻まれて、正確な日昇位置を確かめられないことと、コンパスではせいぜい20分くらいまでしか解析できず、日昇点256度20分と烏帽子岳250度、奥烏帽子岳252度でありました。
偏差約4度だとすると、鳥居場では奥烏帽子岳からの日昇を見ることができそうです。

山を下りその足で、国衙台須波ヶ岡に向かい、烏帽子岳の測量をしてみると、252度30分辺り、奥烏帽子岳254度30分。
鳥居場との偏差2度30分、奥烏帽子と烏帽子の偏差は約2度あまり、ひょっとするとこの場所なら、烏帽子からあがるのが見えそう。

これにより、想定では666年に、この場所に「科野宮」あるいは「科野國州羽之宮」または「須波之宮」が、選ばれて建てられたのだと思い至りました。

 トランシッドを持参できなかったわけは、鳥居場が山の上だったから、国衙台は道端であり、而も烏帽子岳との間に遮るものなし、正確に日昇位置が割り出せそうです。
 明日以降のチャレンジ、乞うご期待です。

金曜日, 7月 07, 2017

(イノベーターの条件)問われる教育

ドラッカー著 イノベーターの条件(2000年翻訳版)
副題:社会の絆をいかに創造するか
第4章:問われる知識と教育
1章から3章は、予言だったが、すでに17年を経ているので、サラッと読むだけで理解できます。

 将に、現代の日本において、知識や教育に問題が生じています。
著者は他の版でも、日本の大学に期待を寄せていますが、この部分をとれば間違いというより、日本人が期待を裏切っているのでしょうね。

 「知識の世界は激動してやまない。今日の学部、学科、科目も、間もなく意味を失う。」
学問にジャンルをつけることに危険性を予言していました。
 政治のステージにおいても、如何に意味のない闘争をしているか、学園モノが見事に教えています。

 そうです。現実にジャンルなんか無かったのです。
例えば、イネ育てるにしろ、生物化学・化学・物理・電気・機械・土木・建築の応用技術に拠って為されていて、基本のところは生命工学で、医学も学ばなくては、本当に安全な食糧生産者になり得ません。
 また、私の場合ではありますが、コメ売るためには醸造学を極め、マーケティングを学ばねば、先はありません。
 極めた醸造学も、上手く伝えるためには心理学もマスターせねば。
 会社を難なく転がすには、経済学や経営学が求められるし、お料理だってできるようにならなけりゃ。
 伝える技術は、文学だって芸術のセンスも求められます。

 それら全てに完結していないと、たったひとつの商品すら、売り続けることは出来ないと思います。
 それが、たったひとつの言葉から始まっています。
「イノベーション」
 幾多の著書あれども、innovation を正しく伝えているものは見当たりません。
 経済学としてのイノベーションの歴史を学ぶと見えてきます。
「新結合」と訳されたシュンペーターのイノベーションは、まだ日本に上陸していないのかもしれません。
 だとしたら、救いはあります。
 資本主義の終焉の前にイノベーションの余地は残っていて、そのあとに来る社会もまた、予言されているからです。
 「奉仕と参加の社会」原語は「贈与と参加の社会」でしたが、フランス語の贈与は、日本ではすでに奉仕と言うかたちで、社会性を持って存在していたのです。

 日本型の社会制度こそが、明日の幸せを約束してくれる、新しい社会形態なのかもしれません。

木曜日, 7月 06, 2017

政治からの独立

 政治に頼れない国家になるでしょう。
ならば政府に近づいても意味がないですね。
 独立した機関であり、社会福祉が期待できる制度、それが商業であり経営です。
 アメリカでは企業年金があって、政府ではなく企業が年金制度を維持しているそうです。
 日本を見ていると、この方が安全であったことが、思い知らされます。
 
 しかし、此処は日本。
 高齢者の福祉について論評することは控えますが、己がやがて高齢になって、福祉をどのように迎えればよいか?
 こいつを考えて、対処しておきたい。
 手に職を持って、己が経営者となって働くこと。
雇われてはならないだろう、搾取されるだけだ。
 儲からなくてもいい、売上は僅かでも良いはずだ、高齢者となって僅かだが年金の支援もある。
 ビジネスとまでいかなくても、野菜つくり、コメつくり、竹細工、便利屋、ペンキ屋、ハギ屋、仕立て屋、なんでもいい。
 鶏の卵かえして、地飼いで卵とって、卵かけご飯売るのだって、やってみれば食べに来るヒト居るよ。
 儲からなくても、始めてみる。
 そうして、勉強して、ひとの生き方学び、お客様のために喜んで働くようになる。
「お客様には、健康で長生きして貰って、自分がダメになるまで来てもらおう。」って考えて勉強すると、自分も健康で長生きできる秘訣が判ってくる。
 福祉も介護も勉強すると、「どうすれば介護を受けずに生きられるか?」判ってくるようになる。
 判ったら、食に気を使って、自分で作れるものは自分で作って調理して、身体を使って運動していれば、100歳まで介護不要になる。
 ダメ元ですよ。
運が良ければ、そうなります。
 そんなヒト、政府も相手にしませんね。それでいいのです。

イノベーターの条件(ドラッカー著)

この本を買ったのは、2000年です。
最近は、本棚にある本を、再び読むようになりました。
 買った当時は、アメリカの問題を論じているので、時代が追いついていなかったのと、私が幼かった事もあって、名著だることに気づきませんでした。

 改めて読んでみると、アメリカの問題がいまの日本にそっくり当てはまり、また、高齢者が経済の中心になって、社会変革の原動力になり得るとの指摘も、他人事ではなく己の置かれている環境と一致しているだけに、深く考えながら読み進めています。

 政治に未来を託すことが、もう許されなくなっている社会と経済の問題を書いています。
 彼を読むたびに思うのは、マルクスをライバル視していることが、感じ取れます。
困難な時代の羅針盤を自任しているのです。

 でも、答えは出していませんので、読者自身が未来を読み解く心つもりを以って、もう一度深読みする必要があります。

火曜日, 7月 04, 2017

こんなひとたち、酷民よ。

国民に向かって、首相が、
「こんなひとたちに、負けるわけに行かない」
そりゃ、酷民は勝てないよ。
でも、AB氏は反省する必要ない。今まで通りでお願いしますよ。

 都民ファーストも、もう化けの皮が剥がれた。なにするひとたちなのか分からないまま。
結局、市民は「こんなひとたち」なのでしょうね。

 前回の総選挙のときには、「経済を上向けてくれる」「憲法は変えない」「TPPは反対」って言った、自民党にみんな入れてた。
 今回の選挙では、「憲法改悪の最右翼の会」名前を「とみんふぁーすと」に替えただけの実態のない会派に、みんなが入れてしまった。

 影で約束をして、実態を知っているので、思わず「こんな(無知の)ひとたち」って言ったったんだろうな。

 いいんだ、このままで、酷民の実態を知らずして、もっと好き勝手に踊るだろう。
やがて時間が経てば、化けの皮が剥がれる。

 その時、国民のエネルギーを、正気なひとたちに向かうように、酷民の一人として、考えていかなくてはならない。

金曜日, 6月 30, 2017

二日酔いのメカニズムの考察

通常、二日酔いの原因は、
「アセトアルデヒドを分解する酵素を持っていないヒトが居て、そういう方が二日酔いになりやすい。」
ということになっています。

 では、お酒によって、悪酔いしたりしなかったりするのは?あるいは、二日酔いする酒があったり、しない酒があるのは、いかなる理由によるのだろうか?

 そこで、実験をしてみました。

 日本酒なのですが、超自然の状態で作った米を提供して、数軒の酒蔵に協力していただき、かなりピュアな状態で、醸して頂きました。

 実は、ワタシは、20年ほど前から、二日酔いがひどくて酒を断っていました。

 この米を使ったお酒を飲むと、不思議な事に、二日酔いになりません。

 何故だろうか?と考えてみると、

 アルコールが入ると肝臓はそれをアセトアルデヒド→酢酸→水という風に加水分解させる作業で、精一杯。
 そこに化学物質、特に窒素酸化物が交じると、NOxはタンパク質の成分のアミノ酸NH2に近いので、普段は除去できるはずが、忙しさに負けてスルーさせてしまう。

 その結果、赤血球に窒素酸化物が交じると、ヘモグロビンがメタヘモグロビンとなって、酸素を運びにくくしてしまいます。
 そのことが頭痛を引き起こしたり、吐き気を催したりして、通常そういう体調を「二日酔い」と呼ぶのです。

 赤血球を構成しているのは、8個の5-アミノレブリン酸(5-ALA)と2個の鉄分、実際には、Fe2O3が2個で、成り立っています。

 
鉄分は赤錆(Fe2O3)の酸素Oは上のALAの O= の部分に付きますと、Fe2O3が2個、O3+O3で、6個のALAと結合して、2個のALAはフリーになっています。
 この部分に、肺で呼吸した酸素が結合して、赤血球1個につき、酸素2個が運ばれていきます。
 
 この空いている2個のALAの O= にNO2がNO3となって付いてしまうと、なかなか取れずに、もしかして損傷して排出されるまで、悪さを続けるのかも知れません。

 ワタシは、この状態が治るまでに、まるまる3日費やして、水も飲めずに吐いたりしています。
 この状態は、市販の酒を飲んだ時、排気ガスを吸った時、砂糖を摂取してしまった時などに起きます。

 不思議なことに、お願いいして造ってもらったお酒では、そういう状態になりません。
アルコール度18度の強い原酒なので、たくさんは飲めませんが、2合位なら翌朝元気にしていられます。